ブログ
Blog

コーヒーブレイク (1)”白砂糖のワナ”にはまった明治の文豪たち

コーヒーブレイク(1) 鈴木修一著

“白砂糖の罠”にはまった明治の文豪たち

(正岡子規の悲劇)

正岡子規は明治の有名な歌人・俳人として才能を発揮しましたが、惜しむらくは35歳の若さで病死してしまいました。子規は子供の頃から、親からおやつ代わりに砂糖をなめさせるような育てられ方をして、大の甘党で大食漢でした。当時、白砂糖は高価な輸入品で、誰でも手に入るわけではなく、「不純物ゼロで、吸収が早い最高の栄養食品」というのが世間の常識でした。そのため明治の富裕層、政治家、実業家、学者や文学者などの知識人が、この「白いごちそう」にこぞって飛びついたのです。

その結果、子規の晩年(=といっても若干30代ですが)は“不治の病”といわれた“脊髄カリエス”にかかってしまい、立って歩くこともできず、病院のベッドで過ごすことになってしまったのです。子規が脊髄カリエスで亡くなる1年前の1901年の著書「仰臥漫録」(岩波文庫)によりますと、病院での彼の食事は以下のようなものでした。

<明治34年9月2日>
朝 ……… かゆ4椀/はぜの佃煮/梅干し砂糖つけ
昼 ……… かゆ4椀/鰹(かつお)のさしみ1人前/南瓜1皿/佃煮
夕 ……… 奈良茶飯4椀/なまり節/ナス1皿
昼食後 … デザートに梨2つ
夕食後 … デザートに梨1つ
午後2時… おやつに牛乳1合ココア混ぜ。煎餅/菓子パンなど10個。
服薬 …… クレオソート(昼飯後と夕食後:各3粒)。水薬と健胃剤。

現代人がこれを聞いたら驚いてしまうような食事量です。病気じゃなくてもこんなに食べたら、病気になりそうです。しかしながら、大食漢というだけなら世の中にいくらでもいますし、みんながみんなそんな恐ろしい“脊髄カリエス”にかかってしまうわけではありません。次回は、この“脊髄カリエス”の正体について、詳しく述べることにします。

- To be continued -